天理教の国際協力活動の歴史

・コンゴ医療救援活動

名称: 天理教診療所「憩の家」
期間:1966年11月~1977年12月 診療所閉鎖(第13次隊)
地域:コンゴ共和国(当時)ブラザビル市
内容:医療支援。医療隊を13次にわたり派遣。
その他:1979年6月 コンゴ政府に診療所を贈呈(その後、随時医療品等の贈呈を続ける)
憩の家より、医師、レントゲン技師、衛生検査技師、看護婦が派遣され、実際に布教に従事していた者の世話取りもあり、10年間にわたり医療救援活動が展開された。1979年、新しく建てた診療所を国家に寄贈しこの活動は終結した。その後随時海外部より医薬品の贈呈を続ける。
また、コンゴブラザビル教会信者によって、寄贈された診療所の草刈り、清掃等のひのきしんが、現在も行われている。
※コンゴ・ブラザビル憩の家診療所

・ラオス医療救援活動

名称:ラオス巡回医療
期間:1970年1月 ~1976年11月
地域:ラオス・バンクーン
内容:医療支援。8次わたる医療隊を派遣。
東南アジア・ラオス共和国への医療活動は、昭和45年1月16日第一次巡回医療隊(山本利雄海外医療科部長、高橋浩臨床病理部長、山中亨臨床検査技師、古城利夫、沖正夫両看護助手)を派遣、バンクーンという僻村を中心に、凡そ三ヶ月に亘って難民キャンプを巡回、診療活動を行いました。これはラオス政府の診療所に、憩の家巡回医療隊が性能の優れた医療器、薬品を携えて手助けをする形で加わりました。しかし、ラオスは、ベトナム戦争、インドシナ半島の解放という歴史的な過程で社会主義国家体制となり、厳しい姿勢を見せ始めました。
そのため医療隊は、50年1月から5月にかけて送った第七次隊を最後に派遣不能の状態となりました。しかし、この厳しい条件下にもかかわらず、天野博之海外医療科医師、木田光雄臨床検査技師は入国の機会を得て、第八次隊として最後の使命を果たすことが出来ました。

・ベトナム難民受け入れ

1976年9月 法務省より難民受け入れ要請
1977年4月 天理教日野ベトナム難民施設を開設
1981年 施設長が総理大臣より感謝状を受ける
1983年 本教が外務大臣表彰を受ける
1984年12月 同施設閉鎖
1985年3月 日本国内で定住難民訪問キャラバンを開始(海外では、ヨーロッパ出張所が定期的にキャラバンを組んでいる)
1995年10月 本教が内閣総理大臣表彰を受ける
1984年の施設閉鎖後も、日本やヨーロッパで定住者のアフターケアーをいろんな形で行っている。

天理教日野ベトナム難民施設の前で

・ケニア救援

名称:「飢えた子供にミルクを」
期間:1981年10月~1988年12月
地域:ケニア等東アフリカ
内容:食糧、医療、学校建築、井戸掘り他
ケニアの救援活動は、1981年「飢えた子供にミルクを」を合言葉に、東アフリカのサヘル諸国(サハラ砂漠南側の乾燥地帯)を襲った大干ばつの被害が激しかったケニアの奥地の子供達とその家族を対象に始まった。
1982年9月には第一次救援隊が派遣され、救援物資を輸送するためのトラックや四輪駆動車などの車両と食料、薬品などの緊急援助からスタートし、進められた。この活動は教会・教区単位で、また教外からも大勢の人々の支援や協力により活動は年々その質、量共に進展していった。
ケニアの国が徐々に復興してくるにつれ、活動の方向も緊急援助からこの国の自立を目指した支援(子供の生活や教育への援助)へと展開していき、活動の地域もモザンビーク、エチオピアなどへと拡大していった。
1990年の終結までに、救援隊(第七次まで)、医療チーム、自動車修理チーム、井戸掘りひのきしん隊、少年少女ケニア訪問使節団等が派遣された。
現在も、この活動を契機に日本人よふぼくが、ガリッサ地方やメル県などに残り、自立支援活動を続けている。
※ケニア救援記録

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